「恋」と「愛」の違いは "主語" だと思う
- kaidohonoda
- 10月22日
- 読了時間: 3分
「恋」と「愛」の違いというタイトルですが、ここに書き残したいのは「愛」についてで、その特徴を際立たせるために、「恋」についても触れます。

まずはじめに、「愛とは何か?」「恋とはなにか?」「その違いは?」という解釈の領域に、これが答えだ!という真理はなく、それぞれの捉えたい方向があるだけだと思います。だからこそ、そこに人間性が垣間見えるというもので。その前提で、いまの僕が思う解釈を残しておきます。
「恋」と「愛」の違いは?
「恋」と「愛」の違いは "主語" だと、思っています。
・「恋」の主語:自分(内側)
・「愛」の主語:自分以外(外側)
これは、どちらがいいという話ではなく、そういうものという感覚です。かつ、いろんなシーンでこれらが入り混じって存在しているとも思います。
「恋」について
「恋」は自分自身を主語として
・あの子に会いたくて会いたくて、週末が待ち切れない!
・私はあの人から、どう思われてるかな?
etc...
のようなイメージ。相手や外の世界に対して、自分がどういう感情を抱いているか?自分がどう思うか?どう思われるか?そういう自分軸を重要視した考え方。自然な生存本能だけでいくと、こちらの考え方が機械的にでてきやすい気がします。
「愛」について
一方「愛」は自分以外の何かを軸に
・相手が喜ぶことに対して、一緒に心から喜べる
・これをしたらあの人は喜んでくれるかな?と想像して行動する
・喧嘩をして腹が立っても、相手の状況・感情を捉えて、自分側の感情に振り回されず発言できる
・嫌な顔をされるかもしれないけど、これは相手にとって伝えた方がいいと思うから、そのことを伝える
・相手を信じ続ける
etc...
というように、そこに自分への矢印はなく、あるのは相手の世界。いかに相手の世界を想像して、そのありのままを全て受け入れていけるか。
物体的には自分というものがあるので、行動は自分がする。でも、精神面において、ずーっと中心に居座ってきた(そいつは今後もそこに居座りつずようとする)自分というものから、意識的に視点をずらしてあげる。そしてその視点の先は、想像した相手の世界へ。
「愛」とは、なにかを「与えていく」というよりも、感覚は自分の経験・考えなどからくるフィルター無しにありのままを見て、聴いて、想像して「受け入れていく」ということなのだと思う。
「愛」を引き出す達人
こないだ赤ちゃんが産まれました。ふと、赤ちゃんは愛をひきだす天才だなと実感しています。強制的に愛の領域に引きずり込まれました。
赤ちゃんの前では、自分主語なんて言ってられませんし、赤ちゃんに理解を求めようとしても、到底不可能。こちら側が、赤ちゃんにとって何が最善か?何にないているの?を考え、行動し続けていきます。これは立派な「愛」だと思いました。
「愛」あふれる人生を求めるなら
結婚をしている、円満な家族がある。それは素敵です!ただ、そういうことだけではないと思うのです。
自分以外を、自分なしでどれだけ受け入れられるか?これが「愛」のベースの形だと思います。本能はなかなかそうさせないので、難しいかも知れませんが、それを乗り越えてこそ見える景色があるかもしれません。
KAIDOH'S FILM
2025.10.22






